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最高裁判所第三小法廷 昭和58年(オ)1022号 判決 1988年12月20日

上告人

森賢昭

右訴訟代理人弁護士

中島馨

山元真士

井上隆彦

木村清志

藤井郁也

戸田満弘

青野秀治

出水順

堀野家苗

山根宏

釜田佳孝

被上告人

大阪市

右代表者大阪市交通局長

阪口英一

右訴訟代理人弁護士

色川幸太郎

中山晴久

石井通洋

高坂敬三

夏住要一郎

間石成人

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人中島馨、同山元真士、同井上隆彦、同木村清志、同藤井郁也、同戸田満弘、同青野秀治、同出水順、同堀野家苗、同山根宏、同釜田佳孝の上告理由について

原審が適法に確定した事実関係のもとにおいて、被上告人の運行する大阪市営高速鉄道(地下鉄)の列車内における本件商業宣伝放送を違法ということはできず、被上告人が不法行為及び債務不履行の各責任を負わないとした原審の判断は、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。右違法のあることを前提とする所論違憲の主張も、失当である。論旨は、ひっきょう、独自の見解に立って原判決を論難するものにすぎず、採用することができない。

よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官伊藤正己の補足意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

裁判官伊藤正己の補足意見は、次のとおりである。

私もまた、原審の適法に確定した事実関係のもとにおいては、上告人の本訴請求を棄却すべきものとした原判決は是認することができると考える。しかし、本件は、聞きたくないことを聞かない自由を法的利益としてどのように把握するか、また地下鉄の車内のようないわば閉ざされた場所における情報伝達の自由をどのように考えるかという問題にかかわるものであるから、これらの問題について若干の意見を述べておくことにしたい。

一  原判決の説示によれば、人は、法律の規定をまつまでもなく、日常生活において見たくないものを見ず、聞きたくないものを聞かない自由を本来有しているとされる。私は、個人が他者から自己の欲しない刺戟によって心の静穏を乱されない利益を有しており、これを広い意味でのプライバシーと呼ぶことができると考えており、聞きたくない音を聞かされることは、このような心の静穏を侵害することになると考えている。このような利益が法的に保護を受ける利益としてどの程度に強固なものかについては問題があるとしても、現代社会においてそれを法的な利益とみることを妨げないのである。

論旨(上告理由第一点)は、右の聞きたくない音を聞かない自由をもって精神的自由権に属するものとし、それが本件商業宣伝放送を行うという経済的自由権に優越するものであるにもかかわらず、原判決がそれを看過していることは憲法の解釈を誤ったものであるという。しかし、私見によれば、他者から自己の欲しない刺戟によって心の静穏を害されない利益は、人格的利益として現代社会において重要なものであり、これを包括的な人権としての幸福追求権(憲法一三条)に含まれると解することもできないものではないけれども、これを精神的自由権の一つとして憲法上優越的地位を有するものとすることは適当ではないと考える。それは、社会に存在する他の利益との調整が図られなければならず、個人の人格にかかわる被侵害利益としての重要性を勘案しつつも、侵害行為の態様との相関関係において違法な侵害であるかどうかを判断しなければならず、プライバシーの利益の側からみるときには、対立する利益(そこには経済的自由権も当然含まれる。)との較量にたって、その侵害を受忍しなければならないこともありうるからである。この相関関係を判断するためには、侵害行為の具体的な態様について検討を行うことが必要となる。右のような観点にたって、聞きたくない音を聞かない自由について考えてみよう。

わが国において、騒音規制法が制定されており、工場や建設工事による騒音や自動車騒音について規制がされ、さらに深夜の騒音や拡声器による放送に係る騒音について地方公共団体が必要な措置を講ずるものとされている。しかし、一般的には、音による日常生活への侵害に対して鋭敏な感覚が欠除しており、静穏な環境の重要性に関する認識が乏しいことを否定できず、この音の加害への無関心さが音響による高い程度の生活妨害を誘発するとともに、通常これらの妨害を安易に許容する状況を生み出している。街頭や多数の人の来集する場所において、常識を外れた音量で、しかも不要と思われる情報の流されることがいかに多いかは、常に経験するところである。上告人の主張は、通常人の許容する程度のものをあえて違法とするものであり、余りに静穏の利益に敏感にすぎるといわれるかもしれないが、わが国における音による生活環境の侵害の現状をみるとき意味のある問題を提起するものといわねばなるまい。

しかし、法的見地からみるとき、すでにみたように、聞きたくない音によって心の静穏を害されないことは、プライバシーの利益と考えられるが、本来、プライバシーは公共の場所においてはその保護が希薄とならざるをえず、受忍すべき範囲が広くなることを免れない。個人の居宅における音による侵害に対しては、プライバシーの保護の程度が高いとしても、人が公共の場所にいる限りは、プライバシーの利益は、全く失われるわけではないがきわめて制約されるものになる。したがって、一般の公共の場所にあっては、本件のような放送はプライバシーの侵害の問題を生ずるものとは考えられない。

二  問題は、本件商業宣伝放送が公共の場所ではあるが、地下鉄の車内という乗客にとって目的地に到達するため利用せざるをえない交通機関のなかでの放送であり、これを聞くことを事実上強制されるという事実をどう考えるかという点である。これが「とらわれの聞き手」といわれる問題である。

人が公共の交通機関を利用するときは、もとよりその意思に基づいて利用するのであり、また他の手段によって目的地に到着することも不可能ではないから、選択の自由が全くないわけではない。しかし、人は通常その交通機関を利用せざるをえないのであり、その利用をしている間に利用をやめるときには目的を達成することができない。比喩的表現であるが、その者は「とらわれ」た状態におかれているといえよう。そこで車内放送が行われるときには、その音は必然的に乗客の耳に達するのであり、それがある乗客にとって聞きたくない音量や内容のものであってもこれから逃れることができず、せいぜいその者にとってできるだけそれを聞かないよう努力することが残されているにすぎない。したがって、実際上このような「とらわれの聞き手」にとってその音を聞くことが強制されていると考えられよう。およそ表現の自由が憲法上強い保障を受けるのは、受け手が多くの表現のうちから自由に特定の表現を選んで受けとることができ、また受けとりたくない表現を自己の意思で受けとることを拒むことのできる場を前提としていると考えられる(「思想表現の自由市場」といわれるのがそれである。)。したがって、特定の表現のみが受け手に強制的に伝達されるところでは表現の自由の保障は典型的に機能するものではなく、その制約をうける範囲が大きいとされざるをえない。

本件商業宣伝放送が憲法上の表現の自由の保障をうけるものであるかどうかには問題があるが、これを経済的自由の行使とみるときはもとより、表現の自由の行使とみるとしても、右にみたように、一般の表現行為と異なる評価をうけると解される。もとより、このように解するからといって、「とらわれの聞き手」への情報の伝達がプライバシーの利益に劣るものとして直ちに違法な侵害行為と判断されるものではない。しかし、このような聞き手の状況はプライバシーの利益との調整を考える場合に考慮される一つの要素となるというべきであり、本件の放送が一般の公共の場所においてプライバシーの侵害に当たらないとしても、それが本件のような「とらわれの聞き手」に対しては異なる評価をうけることもありうるのである。

三  以上のような観点にたって本件をみてみると、試験放送として実施された第一審判決添付別紙(一)のような内容であるとすると違法と評価されるおそれがないとはいえないが、その後被上告人はその内容を控え目なものとし、駅周辺の企業を広告主とし、同別紙(四)の示す基準にのっとり同別紙(五)のような内容で実施するに至っているというのであり、この程度の内容の商業宣伝放送であれば、上告人が右に述べた「とらわれの聞き手」であること、さらに、本件地下鉄が地方公営企業であることを考慮にいれるとしても、なお上告人にとって受忍の範囲をこえたプライバシーの侵害であるということはできず、その論旨は採用することはできないというべきである。

(裁判長裁判官貞家克己 裁判官伊藤正己 裁判官安岡滿彦 裁判官坂上壽夫)

上告代理人中島馨、同山元真士、同井上隆彦、同木村清志、同藤井郁也、同戸田満弘、同青野秀治、同出水順、同堀野家苗、同山根宏、同釜田佳考の上告理由第一点 原判決は、上告人の主張する人格権の内容ならびにこれと被上告人の自由との関係に関する判断につき、憲法の解釈を誤り、その理由に齟齬があるか、または理由不備の違法がある。

1 原判決は、「人は、法律の規定をまつまでもなく、日常生活において見たくないものを見ない、聞きたくない音を聞かないといった類の自由を本来有しているが、右の自由は個人の各種の自由の衝突の場である社会の一員として生活する以上、絶対不可侵のものではなく、他人の各種の自由と調和する限度においてのみ法的な保護を受けるに過ぎない」とし、「地下鉄の利用関係の一方当事者である被上告人には車内において列車の運行や乗客の利用に必要な放送のみならず、法令および社会的に相当と認められる範囲内においてその他の放送をも行う自由を有する」としたうえで、主として本件放送の内容が違法でないという判断のみで、被上告人の本件放送をなすべき自由に軍配をあげている。

2 もとより上告人としても、被上告人が、地方公共団体ではあるが軌道事業を運営するについて営業の自由にもとづく営業活動としての商業宣伝を行う自由を有することまで否定するものではない。

しかし、上告人の主張する人格権の内容は、思考または感覚等の精神的活動領域の自律性を中核とする精神的自由権に属する基本的人権(憲法一三条)であり、「諸権利のなかでも最も包括的で、かつ文明人が最も価値あるとする権利」(ブランダイス)あるいは「すべての自由の端初」(ダグラス)と評価さるべき権利であって、被上告人の有する商業宣伝を行う自由との関係で制約されるとするなら、双方の権利の性格に相応した厳格な基準が示されなければならないものである。

3 最高裁判所判例においても、小売市場の許可制と営業の自由の問題に関連して、「個人の経済活動の自由に関する限り、個人の精神的自由等に関する場合と異なって、右社会経済政策の一手段として、これに一定の合理的規制措置を講ずることは、もともと憲法が予定し、かつ許容するところと解する」と判示し(最大判昭四七・一一・二二刑集二六・九・五八六)、精神的自由権と経済的自由権との間に制約の基準に差のあることを認めている。また、写真撮影による肖像権侵害の問題に関連して、「そこで、その許容される限度について考察すると、身体の拘束を受けている被疑者の写真撮影を規定した刑訴法二一八条二項のような場合のほか、次のような場合には、撮影される本人の同意がなく、また裁判官の令状がなくても、警察官による個人の容ぼう等の撮影が許容されるものと解する。すなわち、現に犯罪が行われもしくは行われたのち間がないと認められる場合であって、しかも証拠保全の必要性および緊急性があり、かつその撮影が一般的に許容される限度をこえない相当の方法をもって行われるときである」と判示しており(最大判昭四四・一二・二四刑集二三・一二・一六二五)、これは「公共の福祉」という法益と「プライバシー権」が対立する場合の比較衡量において「公共の福祉」に対する厳格な制約基準を示したものと解される。これをうけて、学説においてもプライバシー権の制約が承認されるには、①まず、第一に、対立する社会的・公共的利益が、プライバシーの対象である人格的利益に対し、明白に優越していることが必要であり、②これとともに、それ以外の手段をとりえないという必要性の存在が要請され、③第三に、かような諸条件の下においても、その場合の制約には、合理的かつ必要最小限度という比例性の基準が要請されると解している(芦部信喜編、有斐閣大学双書憲法Ⅱ人権(1)一八三頁)。

4 ところが、原判決は、前述のように上告人の精神的自由権である人格権の内容について憲法の保障する基本的人権に支えられた、より強度の保障が与えられる権利であることを理解せず、被上告人の有する経済的自由権とみるべき商業宣伝の自由との関係でどのように制約を受けるかという基準を明確にしないまま、他人の各種の自由と調和する限度においてのみ法的な保護を受けるに過ぎないという命題を述べたのみで、上告人の主張を排斥している。

5 被上告人の本件放送を前記の制約基準に照らして検討してみると、まず、被上告人が営業活動の一環として私企業の商業宣伝を行う自由は、公共の福祉に属するとはいえないし、また上告人の精神的自由権に優越しているといった評価もとうていなしえないところであろう。かりに、これを譲って、右の商業宣伝を行うことは単に経済的自由と評価すべきでなく表現の自由の性格を有するとし、双方の自由に優劣の差がないことを前提としても、被上告人のなす商業宣伝は本件放送以外の手段をとりえず、かつ本件放送が合理的かつ必要最小限度の方法であるといえるであろうか。従来地下鉄車内の商業宣伝は、ビラ・ポスター等視覚的な媒体によっていたのであるからこれに限定するか、強いて聴覚に訴える車内放送を実施したいのであれば一部私鉄が実施しているように座席毎にイヤーホーンを設置するといった手段も検討できるはずである。学者の意見や批評、マスコミに現れた論調、弁護士会の見解等がこぞって本件放送の実施に批判的であったのは、当然のことといわねばならない。

6 以上にみるとおり、原判決は、上告人の保持する人格権が経済的自由権である被上告人の商業宣伝の自由に優越する精神的自由権であることを看過し、これを制約するには憲法の解釈上判例に示された厳格な基準に適合することが必要であるにもかかわらず、これを顧慮しなかったことは、憲法の解釈を誤ったものであり、かつ判断の理由に齟齬があるか、理由不備の違法があるものとして破棄さるべきものである。

第二点 本件商業宣伝放送が上告人の人格権を侵害するという上告人の主張に関する原判決の判断は、その理由に齟齬があるか、または理由不備の違法がある。

1 原判決は、前述のごとく「人は、日常生活において見たくない物は見ない聞きたくないものは聞かないといった類の自由を本来有している。」としながら本件放送が上告人の人格権を著しく侵害する違法なものであるか否かについては、本件放送のなされるに至った事情、その態様、そのもたらす結果などを総合的に勘案してこれを決するほかはないとし、本件放送は、財政窮乏化にある被上告人が地下鉄の運行の安全確保などのために採用した車内放送自動化の費用を捻出するためという実施の動機、商業宣伝放送としては控えめであり、昭和五二年一月以降のそれは一部の限られた乗客に対するものであるが降車駅案内という乗客にとり必要で有益な面を有し、一般乗客に対しそれほどの嫌悪感を与えるものではないという内容からみて、上告人の人格権を侵害するものではないと判断している。

2 しかしながら、上告人としては、被上告人が地下鉄の運行の安全確保を図り、財政窮乏下でその資金を捻出しようとする動機について非難しているものではなく、宣伝文句の表現自体が控え目であるか否か、嫌悪感を与えるか否か降車駅案内として有用であるかどうかなどの内容を問題にしているものではない。このような動機や内容が社会的に相当であり違法性が認められないとしても、これを強制することが許されるかが問題なのであり、上告人は法令・契約・条理等の正当な根拠や物理的に不可避な事情がないのにこれを強制することが人格権の侵害であり違法であると主張しているのである。商業宣伝を行なおうとする動機やその内容が社会的に相当であり違法でないと認定したところで、これを強制することの正当性を根拠づけることはできない。これは、商業宣伝に限らず、ある人の耳に快い音楽であっても、あるいは多数の人によって政治的・宗教的宣伝がその内容において思想的に正しく道徳的に有益であると理解されているものであっても、これらを無理やりに聴取を義務づけ強制することがどのような評価を受けるかという問題と同様である。

3 上告人の主張する人格権は、その本質または性格からみて、いわれのない強制を受けないという干渉阻止権的な権利であり、強制や干渉を阻止することによって人格の精神的な自律性を保持する権利であって、いわば「受け身の自由」(パッシブリバティーズ)とみるべきものである。地下鉄という公共の運送機関は、公衆である乗客にとって目的地に到達するのに不可欠の手段であって、これを利用しているかぎり本件放送は乗客に私企業の商業宣伝を聴取することを強制していることは明らかである。視覚的な商業宣伝は、視野のなかに局在するものであるから乗客が目をつむったり位置をかえたりすることで見ないでいようとすることができ、強制の度合が少なく、乗客にはこれを拒否する手段が残されている。しかし、車内という閉ざされた空間において拡声機によって行う放送には拒否する手段はない。一般社会にいかほど商業宣伝が氾濫していようと、それが認められているのは聞き手が拒否していないという最小限の受容を前提としており、またこの拒否する手段のあることが、最小限の受容を担保する最後の砦なのである。

4 原判決は、視覚的な広告と音声広告との間に質的な差のあること、地下鉄が多くの乗客にとっていやなら乗らずにすませる交通手段ではないこと、そしてその車内が逃げ場のない空間であることなど、私企業の営利宣伝を乗客に強制する結果をもたらすこれらの事情を検討することなく、また聴取の強制という本件訴訟の最も主要な争点について判断することなく安易に本件放送が許容されるという結論を出したのであって、その理由に齟齬があるかまたは理由不備があることは明らかである。

第三点 本件商業宣伝放送を行うことは旅客運送契約上の債務不履行となるとの上告人の主張に関する原判決の判断は、その理由に齟齬があるか、または理由不備の違法がある。

1 原判決は、旅客運送は物品運送と異なり旅客を人格ある存在として輸送すべきものであるから、運送人が旅客をその人の生理的精神的特性に相応する一定限度の「快適さ」をもって輸送すべきことが契約上当然の前提とされていると解するとしながら、本件放送が違法といえないことおよび上告人主張の民法第一条の二のほか憲法を頂点とする現行法の原理原則に照らし本件運送契約を解釈してみても、本件放送を行うことが右の「快適さ」を害する結果をもたらすとはいえないとして、上告人の主張を排斥した。

2 しかしながら、まず第一に、本件放送すなわち商業宣伝放送それ自体が違法でないからといって、当然に「快適さ」を害さないという結論をみちびくことはできないはずであるし、第二に、原判決は、現行法の原理原則に照らし右の「快適さ」の内容をどのように解するか、また本件放送がどのような理由で右の「快適さ」を害しないとするのかの判断を示していない。

3 上告人は、原審において、人の生理的精神的特性に相応する「快適さ」は旅客運送契約における履行義務の本質的要素であり、その「快適さ」の最低限の要請は乗客の人格的尊厳を毀損しないことであると主張した。このように解するなら、商業宣伝放送自体がその内容、態様等において社会的に相当であり、違法の評価を受けないものであっても、聴取すべき義務のない乗客にその聴取を強制し、人の精神的活動領域の自律性という最も尊重すべき人格の根源的なものを侵害することは、契約の履行義務に反すると評価すべきことは当然といわなければならない。

4 本件第一審判決および類似事案を扱った東京地裁昭和五七・三・三〇判決(昭和五三年(ワ)第一一八八六号事件、判例時報一〇四二号)を評釈した長尾治助立命館大学教授によれば、旅客運送契約は、交通手段の性質に由来する制約を除いて、運送が個々の乗客の自然の状態に変化を及ぼすものでないことを当然の前提としており、事業者は事業施設等の秩序を乱す放送、あるいは一定の目的地に到達する乗客の意図と無関係な放送をしないことが契約の付随義務の内容に含まれるとされている(NBL、一九八三年五月一五日号)。右論文のいう「乗客の自然の状態に変化を及ぼさない」という契約義務の内容は、基本的に上告人の主張と軌を一にするものである。

5 原判決が、旅客運送契約の履行義務として上告人の主張にそった認定をしながら、当事者が契約によって達しようとする目的(乗客は商業宣伝放送を聞かされるために地下鉄に乗るのではなく、安全快適に目的地まで行こうとするのである)を基本とする他、個人の尊厳を旨とすべきであるという民法一条の二の解釈原理その他現行法の原理原則に照らして、「快適さ」の内容を明確にすることなく、抽象的に、本件放送を行うことは「快適さ」を害せず、被上告人は上告人に対し本件放送を行ってはならない義務を負担するものではないとの結論を判示したのは、結局においてその理由に齟齬があるか、または理由不備の違法があるといわざるをえないものである。

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